多くの歌手は、その人生において、歌声より先に言語に出会う。
言葉を体得し、その後に歌うことを習う・・という順序になる。
このような順序を経た人にとっては、
言葉を話す声が歌声より前に在ることが当たり前と感じる。
「歌声とは、話す声を鍛えて作り上げるもの」 あるいは
「言葉の延長に歌が在る」との認識を持もつ。
当然 歌の練習においても「言葉⇒歌声」というプロセスを踏む。
体験の仕方は人間の認識に強く影響しますので、
言語の発達した文明社会においては当然の成り行きと言える。
(人類は話し言葉を発明し、
このことによって人類の文明は一気に進展して行くのですが、
人間が言葉を話し続けることによって、当然ながら、
使用されなくなった部分の組織(神経や筋肉)は衰えて行きました)
ところが、
希に、生まれた環境により、言葉より先に歌声に出会う人が居る。
言葉の発音も理解も未熟な内に歌声を発することを経験する。
このような環境に生まれ育った人が、
早期において、首尾よく声を奏でることを体得できた場合、
天才的な歌手に成長する可能性が極めて高くなると言える。
一般の人が、言葉の発声から歌声を作ろうとするのに対して、
彼等は歌声を用いて言葉を歌おうとする。
彼等の体験は「歌声⇒言葉」の順番だったからです。
彼等はまた、このプロセスで発せられる言葉が、
従来の言葉の発音とは異質なものであることも感覚的に気付いている。
(吃音の人でも、歌は流暢に歌う人も多いい)
両者のプロセスの違いは、単に工程の違いで終わるのではない。
出来上がるもの、歌の質が全く異なってくる。
言葉の発音から出発した場合、詩心を表現するのに
「言葉を明確に発音する」とか「言葉に感情を込めて発声する」
などの方法によることになる。
すなわち俳優やナレーターの発声法と同じです。
このような発声は、歌声とは実は相反するもので、
結果的に歌声を規制・縮小させることになる。
こういうプロセスを経た歌声は、
どこまでいっても言葉の響きを越えることは出来ない。
発声器官の動きでいうと、
言語的発声では、母音毎に声門や声帯の形が変化する。
それによって呼気の量もめまぐるしく変化する。
言葉の場合には、むしろこのような変化が表現を生き生きとさせる。
しかし、歌声にとっては、響きの流れを壊し、
音楽的表現や生命力を失わせる原因になる。
これに対して、歌声で言葉が作られる場合には、
母音毎の声門・声帯の変化はあまり起こらず、呼気の量も安定する。
天才的な歌手の歌には、言葉としての音ではなく、
音声そのものの響きに豊かな表現力が感じられる。
そして彼等の口から発せられる言葉は非常に自然で、
そんなに言葉の発音に気を使っていないように聴こえる。つまり、
彼等は詩心を表現するのに、言葉の発音ではなく、歌声をもって行っている。
これが天才的な歌手の秘密といえる。
天才的な歌手を真似ようとしても出来ないのは、プロセスの違いによる。
歌声と言葉の声とは別のものであると常に意識し、別個に訓練し、
歌声で表現する練習を積めば、理屈では天才的な歌手になれるはず。
否、実際には、そういう努力で、
すばらしい歌手になった人の方が多いかも知れない。
もちろん、そう容易に成し得ることではないでしょう。
しかし天才になれずとも、僅かでも近寄ることは誰にでも可能なはず。
何故なら、誰の発声器官も、
生まれながら言葉より歌声を先に発するべく備わっているからです。